なぜ人間は矛盾を受け入れることを拒むのか?

最近、僕は認知的不協和という言葉を見つけました。

矛盾した言動をとることで、なんともいえない気持ちになることです。

例えばとてもへこんでいるときによし!やるぞと思っても、気持ちの矛盾が起こるわけです。

 

しかし、僕は思いました。どうして、矛盾したことはこうも不快に感じるのだろう?

以前から疑問に思っていたことです。この疑問をいろいろ考えてみたいと思う。

 

まず矛盾とはなんぞやを僕なりに定義したい。

矛盾とは一つになれないものである。こう定義しよう。矛盾を飲み込めることができずにいる人間は、今の時代辛いと思う。矛盾を毛嫌いせずに一つのものとして認識する必要がある。

抽象的に物事を見ることだ。矛盾を嫌う人は良くも悪くも論理的なのではないか?

今の世の中が論理的すぎると僕は常々思っているところだ。しかし、世間に広がっている論理的は随分とお粗末に見える。考えていない。その上で、答えをすぐに出そうとする。

これでは、論理なんてあってないようなものだ。論理が世界を分断しているのかもしれない。

何も考えずに飛びつく姿勢や疑わないことなど、日本における問題点のように感じる。

もう少し疑ってもいいのではと個人的に感じる部分はある。

ここで書かれていることは、僕が考えたこと。とてつもない主観的な意見だ。

どこにも客観的な証拠は出していない。

しかし、矛盾を受け入れることが実は平和につながると今書いていて思いついたことである。

論理も大切だが、一方で抽象的な理解も欲しいだろう。

平和とは一つになることである。人間はもともと一つの集団だったと思う。国や文化で分断されていなかったと思っている。

分断があるから争いになってしまう。理解を持って歩み寄れば争いは回避できる可能性はあるだろう。

僕の意見が主観的で申し訳ないが、書いていることは僕が実際に思ったことだ。

今こうして文章にしてみると、いろいろ書けないところや理解が追いついていないことも多々ある。

まだまだだ。

思考が浅いのは僕も同じだ。だから、少しでもいいから考えることから始めよう。

もっと具体的に言うと、疑問を持つことだ。

人との会話やテレビのニュース、ネット記事などあらゆる情報に対して、疑ってみる。

もっと言うなら否定から入る。日本人は疑うことや否定から入ることを嫌う傾向があるように思える。僕はそれこそが1番の問題点に感じている。

もっと勉強すれば、日本は平和になるように思える。学ばなければそのままだ。

自分のできる範囲でいいので、考えるを日常に入れてみてほしい。

認知的不協和から矛盾と流れて、思ったことをつらつら書いていった。

今回は、これくらいにしよう。

最後まで読んでくれてありがとう。