知識習得法について考えてみる
今回は、知識習得法について考えていく。
知識を習得する方法を今までネットの記事だけで探してきた。その中で書かないことのメリットを挙げた勉強法があることに気づいた。 書かないというと何も書かないわけではない。要は覚えるときに何回も書かないこと。小学校の時に漢字を書きまくったことないですか。あんな感じです。
また繰り返すことも大事だという記事も見かけます。何度も繰り返すことで知識が定着する。
インプットとアウトプットのサイクルを回し続けることの大切さを学びました。
そこで、書かないならどうやってするのか。それは、しゃべることです。
書くよりしゃべるほうが手が疲れないし、1回が早く終わるので、繰り返しやすいメリットがある。
ただ、僕は続きませんでした。というのも、漠然とその方法をやっていたから。
そもそも、本や学校でのテキストなどでは全てを覚えるの至難の業です。
自分が覚えたい所をきちんと決めることが抜け落ちていたのかなと思います。次に挑戦するなら、自分が覚えたいことを何度も、喋ってみて覚えられるか確かめていきたいです。
あとは、しゃべる前の準備が必要ですね。前提として、理解しているかどうかも確かめて見ないといけません。
記憶や理解のチェックは、何も見ずに再現できるかで調整します。
ちょっとまとめます。
1 事前に覚えておきたい部分や理解したい部分をチェックしておく。もしくは何かにメモる。 2 1で決めた場所を何度も喋ってみる。 3 喋った後に何も見ずに再現する。 以降これの繰り返し。
これでしばらくはやってみよう。これでダメなら、修正する。
今回はここまで!では!
【読書メモ】生くる執行草舟を読んでみた。読書法に悩んでいた僕にとって考えされられたこと
読書法に悩んでいるのらねこです。
読書法って色々あるんですよね。速読や多読や遅読などなど。本の読み方って本当に色々あります。しかし、僕自身が身につけたい読書法とは何かをはっきりさせたい。
読書をする目的は何だろうか。たくさん本を読んで知識を身につけたい。まずはこれを思い出した。しかし、知識を身につけた先が明確になっていない。また、知識を身につけることだけが読書なのかという新たな疑問も芽生えた。
そこで、今回の本の中に読書論が書いてあった。それを読んでみたときの素直な感想を述べたい。
特に印象に残ったことは
読書を通じて文化の先達と自己の魂の対話を行うこと
この意識は僕にはなかった。知識を得られればそれでよしと思っていたからだ。
この言葉を聞くと、身が引き締まる気持ちになる。古典を読むときがまさにそのような感じだろう。
肝心なことは対話なのだから自分も考える必要があると言うことだ。
読書に教えられてばかりではいけない。その知識をまた自分で使わなければ、知識を右から左に流しているのとそう変わらない。
あまり、真面目になりすぎるのも考えものだけど、頭の片隅に入れておくだけでも、いいなと思っている。
そう考えると対話するには、ブログなどに書くことも対話と呼べるかも知れない。
やはり読むと書くはコインの表と裏だ。
一つのものなのだ。
こんな感じで、軽くアウトプットしてみた。
ではまた!
ブログの読者は自分自身にすると楽になる
最近まで悩んできた事があります。それは、ブログの想定読者問題。
ブログを書いている以上誰かに読めれたいと言う欲は誰もが持っているもの。読まれたいならどうすればいいのか?僕は悩んできました。
で、ここにきて自分自身を想定読者にすること。そして、自分自身が役に立つぞと思えることを書けばいいことに気づきました。
ブログの書き方について、今まで見てきましたが、なんかピンとこなかったんですよ。
でも、全て過去の自分を読者にするのであれば、問題ないんじゃないかと思ったわけです。
例えば、僕は最近買ったM1MacBook Airの調子が悪くてセーフブートをしました。
やり方は公式のホームページに載っていたので、それを見て挑戦。
結果として、セーフブートにしてから調子が悪いところはありません。
あと、公式のホームページで気づかなかったことも自分の体験なので書けますね。
トラックパッドが効かないことに気づきました。キーボードで操作するようです。
こんな感じです。
とりあえず他の人に役に立つことを考えるのは結構骨が折れます。なので、読者は自分自身に絞って、過去の自分が読んで役に立つと感じることを書くといいと思います。
文字数は、極端な話関係ないと思います。要するに役に立つ記事かどうかを基準に最初は判断すればいい。
文字数が多くても、読者にとってわかりづらいかったり、何が言いたいのか分からないものは、読みたくありませんよね。
また自分のメモとして、成長記録として、書いていくこともおすすめですね。
さて、今回は軽くアウトプットしてきました。
ではまた!
内向的な僕が文章を書いてきて気づいたこと
どうも、のらねこです。
ここまでちょこちょこ書き続けてきました。
僕は、内向的な人間で、あまり喋ることが得意ではありません。それどこか、緊張してしまって、頭が真っ白になるレベルです。 そんな僕でも何か表現したいと思って、このブログを書いています。
書き続けてきて思ったことは、やはり頭の整理に役に立つことですね。自分はろくに喋ることがないので、なかなか頭の中にあることを外に出す機会がないんです。ここでは、文章として頭の中の情報を出していくことで、まずスッキリしますね。そして、文章を書くことのメリットは他にあります。それは、自分の考えの間違いに気づくこと。自分の考えを文字化することで目に見える形になります。それでまた新たな思考が生まれるわけです。新しい思考を生むスペースがない状態がインプット過剰になります。アウトプットして情報を出していく必要があるわけです。
まあ、一年前の僕もあまり文章を書いてこなかったわけですからあまり人のことは言えないですね。
アウトプットの重要性は最近本やネットの記事で見かけます。確かにインプット過剰の現代なのかもしれません。 しかし、アウトプットの場が増えてきたことも事実だと思います。現に、こうして、僕はブログを書いているわけです。 もちろん、文章を書くことがアウトプットの全てではありません。例えば、自転車に乗ることやダンスをするといった、体を動かすこともアウトプットのひとつですね。さらに美術館で絵画を見て何か思うことがあったら、それを絵に描いてみる。これもアウトプットになります。
アウトプットで文章が注目されるのは、手軽にできるからでしょうね。
インプットも読書をして得る。そして、得た情報を文章化する。このサイクルが一番しやすい。
ただし、文章を書くことが上手くなることは言うまでもありません。しかし、それだけですね。アウトプット先は文章だけではないはずです。
変な話、読書で得た感覚を絵で表現するとかでもいい。表現方法は決まっているわけではないでしょう。
ただ僕としては、これからも文章でやっていきたい。なぜかというと、手軽だからですね。色々な表現方法の中で文章が一番僕に合っていると感じます。
これを読んでいる方も、文章から始めて見ては?
文章を書いてると自分がわかる。さらに自分の考えに共感してくれる人もいるかもしれない。つまりアウトプットとは自分の存在を知らせる行為に他ならない。
自分の考えを知ってもらうためにはどうしてもアウトプットしなければならない。インプットばかりでは、他人から見たら何をしたいのか分からない。アウトプットで他人に分かってもらえる。
他人に理解されたい欲があるならば、自分は他人に対して、なんらかのアウトプットしているのかを考える必要が出てきますね。
さて、今回は文章を書いてきて気づいたことをつらつらと書いていきました。
ではまた!
僕の知識は羊頭狗肉なのか?
どうも、のらねこです。
今回は、ふと本を読んでいる中で思った事があります。僕は知識を使いこなせているのか?
この疑問に自分なりに考えていきたい。
まずタイトルにある羊頭狗肉という言葉について答えておきます。
羊頭狗肉とは、見かけと実質が伴わないことのたとえです。ことわざですね。
僕が行っている知識習得はこの羊頭狗肉になっているのではないかと思ったのです。
なぜなら、僕は知ることばかり気にしていたから。知識を使う場面を想像していなかったのです。
目的なき知識は偽物かも知れない。目的あっての知識です。僕はこんなことに気づいていなかた。
アウトプットしていなかったことも関係しているでしょう。インプットした情報をアウトプットしてこなかったことが、ここにきて身に染みますね。
見かけと実質が伴わない。まさに知識習得に言えることではないかと思いました。
この関係を断つためにはやはり、インプットとアウトプットをやっていく事が大事。
特にアウトプットを意識しないとインプットしただけで満足してしまう。これでは何のために知識を習得したのか分からない。
僕は何のために本を読むのか。考えたことがない。だからなかなか今でも目的を立てる事ができない。
いや、本当は、怖いからだ。実の所、僕は目標がないわけではない。ただ、恐怖で進めないのだ。
知識習得がインプットばかりの僕は、この恐怖に縛られているのではないだろうか。
ここまで、知識をアウトプットしてこなかった。アウトプット的な人生を送ってこなかった。
これは認めるしかない。僕が今までアウトプットしてきたことはどれくらいだろうか。
言葉にしろ、行動にしろ、僕は他人に影響を与えてきたのだろうか。ふと疑問に思ってしまう。
自分の人生が羊頭狗肉にならないように少しずつ前進していきたい。そのために今の自分にできるアウトプットをしていこうと思う。
この文章もアウトプットの一つだ。これを読んだ人がどう思うか分からないが、何かの参考になってくれたら幸いだ。
では!
理解するまで読み込みたい
こんにちは、のらねこです。
今回のテーマは理解するまで読み込むことについて書いていきたい。
あなたは本を読むときにどんな読み方をしてきましたか?
メモをとりながらとか音読しながらとか色々あるかと思います。
僕も上記の方法や繰り返し読むことを実践していました。しかし、読み込むまでしてきたかというと怪しいです。
僕は理解するまで何度でも読んできたのか?
ダラダラと読むだけや繰り返す回数だけに目が向いていた。
さらに最初から覚えることや理解することを狙っていた。
でも、そう思いすぎて読むこと自体をやめてしまうことが多々あった。それではだめだ。
だから、覚えようとしようとか理解しようとか思うのは最初のうちはやらないほうがいいのかもしれない。
これは、最初の段階の話だ。理解できるところに変化が生じる。
覚えようと思わなくても、徐々に繰り返していけば覚えるものだ。
それを足場にして、繰り返すといいだろう。
結局は理解することが目的だし、必要な知識は覚えたい。
繰り返すうちに理解や暗記ができればいいという気持ちで取り組むことしていきたい。
最初は辛いが、読み込んでいけば必ずわかるとわからない部分がはっきりしてくる。覚えているところも同様だ。
あくまで続けていけるやり方でいきたい。本を読むことだけはやめたくない。
勢いで書いてきたが、今回はここまでにします。
では!
人との関わり方とはなんだろうか?
人との関わり方について最近考えるのらねこです。
関わり方って難しい。人のことを考えすぎてしまう僕としては、こんな時にどうすればいいのか?と常に考えてしまう。
考えること自体は悪いことではない。想像することも悪くない。ただ、コントロールが効かないことは僕が疲れてしまう原因だ。
人との関わり方に疲れるのは考えすぎなのかもしれない。しかし、ではどうすれば考え過ぎにブレーキをかけれるのか。それが今一つわからない。
ブレーキをかけることがいいのかもわからないが、少なくとも今の問題はブレーキをかけるにはで考えている。情報を収集して、考えるべきか? もっと、問題をシャープにしたい。問題を細かく特定していけばそれが答えになるはずだ。
僕の問題はもしかしたら、知識量の問題も関係しているかもしれない。 というのも、僕は中卒だ。不登校になったのだ。 それ以降、勉強はときどきやる程度だった。
だから、知識量の不足は否定できない。
これからも人との関わり方を模索していきたい。
では!